海外生活が約半年過ぎました

このblogが一体何年前に設置されたのかも忘れたころに、なんとなく日々の考え事をアウトプットしたいと思うことがあり、ここを開いてみた。

最新の日記の完全なる無意味感に感動しつつ、自分が"海外生活"という人生初の"blogに書けるやんコンテンツ"を手にしている事実に震えつつ、引き続き完全なる無意味感を目指していくよ―― ということで、2015年11月に欧州生活を初めて約半年となりつつあります。

 

起承転結のないだらだらコンテンツ(予定)
  1. 駐在女子といういきもの(のカテゴリーにやっぱり入らなかった) ←本稿
  2. 英語というツールの先にあったもの
  3. これから

 

1. 駐在女子といういきもの

そもそもなんでblog書こうかと思ったかというと、最近twitterで駐在女子というカテゴリーが存在することを知り、まあ駐在にかぎらず単身海外で一般的なサラリーマンをしながらうごうごしている女性がそれなりにいてネットワークを形成しつつあることを感じたのがきっかけです。

これから海外駐在、海外転職、なんとなく海外進出を目論む方(とくに女性)にマイノリティな自分の醜態を晒し、混乱させるのが本稿の目的です。

いや、駐在女子ってキラキライメージが先行するじゃないですか。それを地味系アラサーが釘バットでデストロイしていくイメージでこれを書いています。

 

おそらく私はその海外リーマン女性のなかでも若干変わった経歴のはずで、職種は製造業(ものづくり技術系エンジニア)、完全独身33歳、現地の顧客やメーカーと折衝するために単身ドイツの"営業所"に赴任してきた、というのがざっくりとした現在のステータス。エンジニアですが研究所でも工場でも事業場でもない。周囲は営業とか経理とかいわゆる文系の人しか居ない。よって一応のレポートラインは存在しているものの上司も部下もなく、100%自身の裁量で仕事をしていて(←まぁこれは日本にいた時からそういう感じでしたが)、自分の仕事の定義に悩むこともありますが最近は【技術コミュニケーション・ネゴシエーション屋(ただし武闘派)】と名刺にでも書こうかなと考えております。

 

他社さんの駐在員、ましてや女性と知り合うことは皆無なので、というかそういう会合にあまり顔を出していないので、駐在女子とかいってカテゴライズしようとしても我輩には無理なのですが、N=1の自分の生活を晒すと、まぁ地味なもんです。

英語については別の機会に語るとして、ドイツ語は生活に支障が出るレベルで話せないので(電気代の誤請求は会社のドイツ人同僚に解決を委ねました)、アフター5を充実…とかそういうレベルまで人間力が高められないのです。ていうか電気代に関しては誤請求であることに気づけた俺GJ!! Google Translate & Bing Translateサンキュー!!ていう話です。英独翻訳は後者がおすすめです。

というわけで、平時は自室で料理、Kindleで日本から電子輸入した読書、後述しますがイギリスのテレビで英国人力英語力を高める自主トレ等に興じております。

 

ただ日本での生活と比せば、当然生活は一変しました。

月1〜2でEU圏内出張があり、仕事でドイツ複数箇所、ロンドン、ミラノに足を運び・・・しかし平時の仕事は現地に根ざした労働条件もあるので、基本的に週の労働時間は45時間未満。100%自主裁量労働なので休暇も日本の100億倍くらい取りやすい。

食べ物の高価・安価が日本とは違うし、日本食材は基本的に高いので、食事の組み立ても一変。値段の安いパン、牛乳、ヨーグルト、季節物の果物、肉類を中心に据えつつ、オーバーカロリー防止に腹をなるべく玉ねぎ、キャベツ、セロリなどの安価な繊維野菜で埋める…みたいな料理をしています。ドイツは加工肉が無限にあるのですが、酒飲みでないというのと、火の通っている料理が好きなので、まだ加工肉の真髄に達していません。そこはちびちびやっていきたいな、と。

 

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ドイツの有名巨大スーパーReal-,の加工肉売り場。この冷蔵庫ずっと加工肉でもう一列加工肉がある

 

夫や恋人がいて一緒に住んでいるだとか、欧州人の恋人が出来るだとかしたら、さらに文化的な大転換が起きることが予想されるのですが、一人でいる限り自分の周囲半径50cmはやはり日本だし、ネット開いたら日本だし、赴任中に起きたSMAP解散騒動とかもちゃんと知っているし…ネットとSNS電子書籍の発展によって、バーチャルな日本はドイツの我が家までしっかり拡張されているんですよね。だから、日本にいて地味だった人は、そのまま地味なのです。と、思います。

海外ならではの暮らし方をしたいと思って意欲的にそうしない限りには、日本の延長線上の生活が待っている。そこをひねって海外っぽくしていくのが正解かどうか?については、個人に依るんじゃないかと思います。もちろん海外っぽい暮らしをしないと勿体無いというのは理解するけど、そうしない人を不正解だと揶揄する勇気は私にはないです。(そして一般的な駐在員男性は、おそらく駐在女性よりもっと日本的な暮らしをしているか、または駐在員特権的なVIP暮らしをしてると思います、弊社はビンボーなのでそういう人は居ませんが)

 

ただ、地味を装いますが、こちらに来て起きた価値観の転換というのは決して小さくなかったです。おそらくこのまま帰国して、赴任前と同じ働き方はできないだろうというのを強く感じてます。労働時間的なこともあるし、英語をふつうに生活で使うようになってその先に見えた、英語でふだん暮らしている人たちの価値観、または英語による報道が試みるグローバルスタンダードの定義と日本の文化との差分、そのあたりを知るに、日本はやはり何かおかしいのです。日本式教育が根付かせた規範意識、"あるべき姿"が、私達が本当にやりたかった生き方を制限し、縛っていると感じる。

そのあたりの窮屈な気持ちと、英語を知ったことで拡張されていった自分の知恵、考え方の話を、ちびちびと今後書いていきたいと思います。

 

あと多分誰の参考にもならない英語のTipsも書き残していこうと思いますです。

 

プログレッシブ 英語コロケーション辞典。
動詞と前置詞の組み合わせ、動詞と名詞を組み合わせるフレーズなどの見直し用に。パラパラめくるだけで、へ〜となる。例文も充実。ただし20%位の割合で知りたかったことが載ってなく結局辞書をひくハメになる。どちらかというと読み物的使い方で調べ物には不向き。

Hello World 2015

先日、大変久しぶりにコミックマーケットというやつに行ってきました。

以前漫画を書いている友人の手伝いで何度か売り子に参加したことがあり、なんとなくの勝手(10時に開会宣言があったらとりあえず拍手する、とか)は知っていたのだが、自ら買物をする目的で出かけたのは初めてで、つまり一般参加というやつも初めてで、事前知識をある程度持っていたものの有明のだだっ広い駐車場に人間がドカーンとつめ込まれて、人から立ち上がる冬の陽炎の向こうに揺れている東京ビックサイト的な建物まで何百メートル…本当にあすこに辿り着けるのだろうかと時計を見ながらチッチチッチする10時48分、お目当てのブツの購入成功確率がチッチチッチ下落していく音…

みたいなのを初めて経験しました。どうでもいい前置きが長い。

目的は平素ボーマスや秋葉原のショップで購入している同人音楽作品をコミケなるところでも購入してみよう、主に2014年ハマったAnnabelさんの参加作品集めだったのですが、挨拶に友人のサークルに寄ったところ近所で「久谷女子便り」の頒布をされていまして、WebBBAのはしくれとしてもちろん活動自体は存じ上げておりましたので、記念に新刊+少し購入、読んでみて、「あ〜blogメンテすっか」と思ったんですね。

それが更新動機です。背景説明も長い。

   *   *

 2015年は小職、本厄に当たるのですが、12/31の朝発熱、昼間は床に伏して18時頃そろそろと起き上がると39.5度…。インフルでした。前厄から本厄へ…色鮮やかにインフル感染とともにブリッジ決めた自分にロックを感じつつ、2014年の棚卸しをすることもなく、紅白歌合戦は心眼で見て(音だけ聞いてた)年を越しました。

タミフルなる、インフルエンザウイルスの遺伝子複製を抑えるお薬及びワクチン自衛の効果によって、1/1の朝には熱も下がったのですが、3が日外出禁止のため自宅で出来うる限りのことをしました。買ったばかりのMacbookproへの環境移行、iPhotoライブラリ再構築、データがぶち飛んだiPhoneにデータを入れ直し、積みCD読み込み。お部屋の掃除…布団カバー洗濯して干して…2014年の棚卸しもやろうぜ、去年買った音源のライブラリを薄目で眺めて…

   *   *

ここ何年もずっと同じようなことを考えているのですが、自分の音楽資産がしょぼい。

ライブラリを見た時のワクワク感がない。音楽を聞こうと思った時に聞きたい曲が無い。

自分が年間音楽につぎ込んでいる額から考えると、投資効率がとても悪いように思います。音楽業界のせいにするのは簡単ですが、たんに自分のセンスが悪いだけなんじゃないかと思う。年始早々、自分の購入行動のセンスのなさに心底がっかりし、しかしどこにも救いを求めることも出来ず、2014年の良いやすお♡ひとしを右カラムに閉じ込めてみました。どうぞご査収ください。

   *   *

2014年はずっとどうやったら英語の”上達を実感”できるのか、悩んでいた

昨年は仕事的にはすこし飛躍というか、フィールドの変化を実感できた年でした。

製造業はもともと工場におり、不良品という存在自体がネガティブで夢も希望もないその”概念”と対峙することを仕事とし、日々ヤミヤミとしていたのですが、近年そこから開発っぽい仕事にシフト、開発品のプロジェクト管理的なことやら対外折衝やらをメインフィールドとするようになりました。

重ねて足を伸ばす先にEUが加わり、晴れて”英語ができないと仕事にならないやつ”との遭遇と相成りました。結論から言うと、英語ができても重宝がられこそすれ、金にも評価にもなりません。私のいまの環境下においては、英語ができることって”美人”とちょっと似てて、ちやほやされるんだけど、結論仕事において価値換算可能なもの(つまり金)になりにくいなと感じています。英語ができないやつ(上層)が、できるやつ(私)に「金」で報いないの美しい日本だな…と日々思いつつも、世界に目を向ければ英語ができるやつなんて掃いて捨てるほど居て(何億人も)、だのに私がお給金もらえてるのはたぶん私が英語できるからじゃなくて、製造業エンジニアとしてのスキル持ってるからなんですよね。私の価値の重しは、英語じゃなくて理系の側にある。

…そういうことを考えて、自分の英語がいつまでたっても上達しないことから目を背けようとしました。

前置きも背景説明も本文も長い、B級サラリーマンである私にとり、自分が考えているくだらない話を目の前の人間にできないことはそれなりの苦痛であったりします。

その日、我々は会社の近所のイタリアンでガチのオペラがBGMで流れる中、同僚の自宅にある高級オーディオやばいという話をしていました。英語で。俺んちのアンプはMaranzだ。マランツは日本の会社だろう。あれはなかなかいいものだ。(((えっMarantzってマランツさんが作ったんだからMarantzなんじゃねーの、たまたま日本のデノンに吸われていまは日本企業かもしれないけど))) 昔はアカイのスピーカーなんてなかなかいいって言われていたよね。アカイはもう潰れてしまったんだ。オーディオメーカーはなかなか生き残れないなあ。(((いやいやいや、AKAI Professionalってまだフツーにあるべ、たまについったで見かけるしやな)))

ということが、喋れないんですね。そしてどうしたら喋れるのかも、自分がどうしたらいいのかも、よくわからなくて、途方に暮れるしかなくて、酔ったふりしてぼーっとしてた。

   *   *

私のようなスジガネ入りの二流の人間の場合、努力している自分に酔う等の行為は日常茶飯事なのですが、努力をするという”行為”に到達するには、ある程度何をすればいいか方向性を定める必要があります。単語をやるのか、文法をやるのか、オンライン英会話をやるのか…

いちおう私も英語で仕事をなんとか遂行しているわけで、何がしかはできているのですね。でも、自分でやりたいこと(=飯食ってる時にくだらない話をする)ができていない。何が足りていないのか自分で判断がつかない。この迷宮入り感が中々に難しい。

たとえば私は服のセンスもいまいちですが、じゃあどんな服を買ってくればカワイイが作れるのかわかんないんですね。雑誌の服をそのまま買ってくることもできない。

この、方向性を見失っている人を客観視して、「こうしたらいいんじゃないの?」とコンサルティングしてくれる存在はいてくれないものでしょうか。

   *   *

よくわかんないけど、ちょっと今年こそは嫁に行きたい感じにまとまったので、終わろうと思います。

最後に自分なりに自己分析の上自分に課したものの、一向に消化の悪い名著のアフィリエイトを貼っておきますのでお納めくださいますようよろしくお願い申し上げます。

伊賀泰代「採用基準」〜日本人にはなぜリーダーシップがないのか会議

マッキンゼーに17年勤め、キャリアの長くを採用担当に費やしたという伊賀泰代さんの本を読みました。50周くらい周回遅れですが読書感想文を書きます。

 

採用基準
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読者は「マッキンゼーの採用基準」を知ったあと、どう行動するんだ?!

編集者に是非問いたいのは、この本をしてなぜタイトルが「採用基準」なのか?ということ。わざと敢えて主張の中心を隠しているのだろうか。まぁ確かにマッキンゼーがどういう人材を欲しがっているのかはすごくよくわかるのだが、どうすればその人材像にマッチングするのか(むろん、イマドキ就活テクのようにテクニックとして自分を魅せる方法ではなく、どうトレーニングして自分を磨けば良いのかということ)は書いていない。だから、自分が本書にうたわれる人材と合っていないことが判明すると、「俺はマッキンゼーは無理だ。おそらくその他の外資系コンサルも無理だ。チャンチャン」という感じです。

本書を手にとった人には、自分がコンサル的なところで働くことをイメージする人が多いと思うので、読後、”本書に描かれた人材”と”自分”とのギャップをどう捉え、どう行動していくのか、大変興味があります。読んだ人でアフターパーティしてみたいもんです。

 

本書にはずっと「日本人にはリーダーシップが不足している」と書いてある

では本書にうたわれている人材が如何様かというと「リーダーシップが取れる(またはそのポテンシャルがある)」人だと書いてあります。くり返しくり返しくり返し。

日本人の謎のリーダーシップの欠如は、やもすれば同じアジア圏において中国韓国香港シンガポールその他各国に劣る可能性があり、グローバル企業が地の利として「アジアはアジア、ひとつ」と考えると、日本人は(英語が下手という欠点もあり)採用からこぼれる可能性があると指摘しています。

本書の特徴の一つは、やたらと日本人vs.外国人(とくに欧米、またはアジアのトップ人材)の比較となっており、日本人が外国人に比べてどの辺が劣っているかを延々と指摘し続けます。読み進めていると、伊賀泰代様の発言は全て正しく、トライアングル構造・ヒエラルキーの中で働き上司の判断をいちいち仰がないと進んでいかない日本企業は阿呆なんだと思いますし、電車に乗っていて明らかに席譲るべき場面でそうできない自分も阿呆なんだと思いますし(本書内では、あらゆるケースにおいて「こうすべきだ」と自分の考えを持ち、実際に動ける人間が「正解」とされています)、なんかもうとにかく日本人阿呆でごめんなさい、今後はアジアの末席でフィリピンのコールセンターの下請けの仕事します英語わかんないしごめんなさい、みたいな気持ちになります。

 

読者諸賢はなぜ日本人にはリーダーシップが不足していると考えるか?

私の小学校の頃のトラウマの話をします。

私、逆上がりができなかったんですね。むろん今もできない。記憶が確かなら一度もできたことがない。でも小学校では体育で逆上がりの時間があるし、テストもたしかあった。でもどうやったら逆上がりできるようになるか?のハウツーって、無かったんですね。なんか友だちにおしり持ち上げてもらったり、足で駆け上がってくガイドを蹴ってまわろうとしたり、色々ありましたが、それは一人で逆上がりできるようになるためのツールではない。

小学校においては先生から「君は逆上がりができないので、逆上がりが出来るようになれ」という指導された。「takemyhandsさんは跳び箱が4段までしか飛べません。テストは6段でやるので、6段飛んでください」ていう、指導。

で、自分は友だちに付き合ってもらって練習した。でもその練習は、出来もしない逆上がりのフリを何度も何度もやってるだけ。だからすぐ飽きた。跳び箱も。どうせ6段に向かったところで、おしりが箱に乗り上げるだけ。なんどやっても。だから飽きた。

身体をどうつかって、腕は?足は?踏み込みはどうしたらいいのか?って、指導されたこともなければ考えたこともなかった。だから出来なかった。人の動きを真似して習得しようという考えがないことは自分の落ち度なのだろうけど、先生から”出来ない、を、出来る、のフェーズに持っていく”ような影響を受けた記憶もない。

なぜ私は逆上がりができないのか? なんて考えたこともなかった。

 

「日本人にはリーダーシップが不足しているので、リーダーシップを持ってください」というのは、どこかの企業の採用担当者の物言いなら理解するけれども、読者から1500円を回収して活字を売った著者の物言いだとしたら、物足りない。ところが残念ながら、本書は概ね「リーダーシップ持ってください」レベルで登頂を迎えており、その先がありません。

なぜ日本人はリーダーシップが不足しているのか。世代別に捉えたらどうなのか?戦後レジーム的なメンタリティなのか?それでも高度経済成長できたのはなんでか?そういう分析を加えて行ったら、もしかしたら日本人の多くがリーダーシップを捨てた背景が見えてくるかも知れない、合理的行動として捨てている可能性もある。(といいつつ、私は、自分及び周辺の人間のリーダーシップの欠如は、初等教育の失敗、だと思っているけれども)

そして、われわれは、どこかに置いてきてしまったリーダーシップをどうやって修得したらよいのか?…そこの分析と対策立案が肝心要であり、リーダーシップのある人間とはどんな行動をするのか?というモデルケースをいくつも読んだところで、なにか心の奥のディープなところでブレーキのかかっているそれは、簡単には解放されず、本書が提示する人材像を達成するには、なにか心の奥底の鍵でも探しに臨床心理士の元にでも通ったほうがいいんじゃないかとか、へぼなアイデアが浮かぶのです。

 

鳴らされた警鐘はたしかに響いて、俺明日からどうしようかな、という気分になる

で、どうやったらリーダーシップを取れるのかは本書を読んでもわからなかったのですが、よくよく考えてみると私は会議その他の場でさっそうと司会兼主役に踊り出、議論をリードしまくり、参加者の顔が辟易としてきた頃に我に返ってガクブルしたところで先生の出る杭への鉄槌を喰らいスピリチュアルアタック→鬱、というルートを学習することなく幾度も繰り返してきたたちだったので、元々リーダーシップがあるものと思われ、「英語と年齢の問題さえなんとかなればマッキンゼー行けそうな気がする」という安い勘違い感想を持つに至りました。

しかし、「リーダーシップを取ることには、恐怖感もある、実際に出る杭は打たれるというリスクもある、だから得ばっかりとは思えない」という鬱思考を打破できるような力は本書にはありませんでした。本書のテンションで行くと「リーダーシップを取ることは絶対に正しい。取って出る杭として打たれるなら、それは打ってる奴が阿呆。すなわち日本人は全員阿呆、悔い改めよ」という結論になってしまいそうなのです。

でもそれにはやはり違和感がある。安易な日本人vs.外国人論に対する違和感なのかも知れないし、著者がワールドワイドな人脈の中にいたとしてもどうも日本人に自虐的すぎるんじゃないかという気もするし、それに読者はマッキンゼーで働く人よりマッキンゼーで働かない人のほうが多いし、むしろ伝統的日本企業でぬくぬくと終身雇用の風呂に漬かり一生を終える・でも意外と日本は強い国だったよねていう結論、という具合のサラリーマンのほうが圧倒的に多いわけです。

ただ確実に言えるのは、だいたい誰だってある場面において「こうしたほうがいい」という気持ち・意見は持っているもんだと思います。会議してて強制的に指せば、質は別として何がしかは出てくるものだから。その「こうしたほうがいい」という気持ちを大切にすべしと、そして行動することがベターだと、本書はそれを伝えようとしているんだと思います。何かと上司の顔や会議の雰囲気をうかがい、自分の意見を抑圧し、あれよという間に決まる多数決(または上司の鶴の一声)。しかしながら、意見形成をしたメンバーが全員自分の意見を抑圧し、空気だけ読んで適当に意見賛同している可能性がある。本心や本当のperfect answerは全く別のところに潜んでいる可能性がある…そういう「賢」を掘り起こすことが必要だし、そのためには個々の行動がキーになっている、と、そういうことなんだろうと思います。

 

提示すべきは「ハウツー」ではなくて「成功体験の明示」かもしれない

リーダーシップを取ることはなにかと怖い。

私はその、リーダーシップの取り方を提示してくれない、という意味で、本書の物足りなさを指摘しているわけだけど、普段からリーダーシップ取りまくりの人からしたら、逆にそれを取れない理由がわからなくて、ハウツーなんて説明できないかも知れない。

私はリーダーシップを取ったり、取ろうとしたりして、結果的に仕事に疲弊した経歴の持ち主なので、それが怖いことだってことも分かるし、リーダーシップ取ること・取らないことの差もなんとなく分かるけど・・

賢明なる著者並びに同業者の皆様に伝えたいことは、リーダーシップを取ることは怖くない、ってちゃんと伝えて欲しいってことです、成功体験の明示により。サーフィンみたいなもので、はじめは怖いけど、上手いことリーダーシップ取れるようになった後のリターンはすごく大きい、ということなんだと思うけど。そして、リーダーシップ取れてたのに取ることに尻込みして仕事から逃げた私さえも、仕事にフィールドに呼び戻せるほどに強烈なインパクトで、そして意外とカンタンと思える手軽さで。われわれ日本人は自虐するほどアホじゃない。足りていないのはリーダーシップのみ。そしてそれを取ることは実はイージー。それを証明して欲しいものだと思います。

私は怖いから出来ないと思ってる。でもそれはつまり「怖い」をなくせば、もう出来るってこと。出来ない理由を考えて潰せば、なんでも出来るようになるんだということ。

 

ほんじゃーねー