バンドマンにあこがれたなら

9月末にいわゆるサラリーマン的な仕事を辞めました。

大胆かつ慎重に長期間に渡って地味に準備をしてきて決行したことなのですが、こちとら地味に20年近くに渡ってサラリーマンをしてきたわけで、辞めて1日の時間が自由であり続けることに対して未だに全く慣れず、本当にこれで良かったのかよくわからなくなっており、その戸惑い感を書き記しておこうと思う(一息)。

 

バンドマンへの憧れ

ところで小田急線沿線の新宿に近いエリアの主要駅ってどうしてどこもこんなにノスタルジックなのですかね。駅から伸びる道が細くて、両側に、チェーン店と個人商店とこぢんまりとした飲食店と価格が怪しい八百屋が軒を連ねていて。

特段、下北沢などに縁があるわけではないのですが、やっぱり学生のころとか多感な時期にしょっちゅう通って、いいことや悪いことがあったり、終電逃すドキドキを抱えながらお酒を飲んだりしたからなのですかね。あるライブのあと、打ち上げに誘ってもらってあすこの餃子の王将に行って、あるベーシストの人からめちゃくちゃ説教されてさ。当時大学院生で、(研究室が忙しかったから)バイトもしてなくて、親のお金と奨学金で学業を回しつつも(でも)夜は遊んで暮らしていて。それにしたって理系の院生なんてきたねー女だったに違いないのですが、つまり遊び慣れた女とはまた違うなにかだったと思うのですが、そんな私に中卒の彼は「俺たちは君みたいな人がきっちり社会をまわしてくれてるから小さなライブハウスでベース弾いて酒を飲んで暮らしていけるんだ。社会の方は任せたぞ」と言って、チャーハンと餃子とビールを奢ってくれた。レバニラも食べたかもしれない。

最近彼はどうしているかなと思って調べてみたら、某アニメ系IPのハウスバンドとして超大箱でガンガン演奏する、完全にすごいプロミュージシャンになっていて、つまり最近の私の社会支え具合と比べても明らかに向こうのほうが凄いということになっていた。おいおい。

とにかく、その時私が思ったのは、私のような人間はバンドマンからそう見えているんだな、と。学歴偏重型の生き方といいますか。

 

標準的ライフコースの行き先は「組織」

私は音楽が好きだったけど、辛抱強く演奏の練習をする根性もなかったから、バンドマンになりたいと思ったことはない。学歴を武器にして当時の学生が叩く門は「組織」である。

最近では、能力のある大学生はいきなり起業したり、ワーホリ行ったり、組織に就職する以外にもいろいろ選択肢があると思うのですが、いかんせん当時はめちゃくちゃ景気が悪かった。デフレのせいでハンバーガーが59円だったころの話です。

慎ましく就職することは当然で、就職できない人も大勢いた。就職留年は典型的な職探し手段。ポストバブルの流れを汲んで、前向きにフリーターを選んで経済的に困窮する人も普通にいた。私は、辛抱強く就職活動をする根性もなかったから、4,5社落ちたところで辛抱たまらんと思って、研究室に直接求人が来るルートを使って推薦で職を選た。まあ、妥協です。そういう方法では入社できない超花形企業への就職を目指して玉砕し、博士課程に進学する先輩も少なからず居た。私は冒険できなかった。女子だったし。社会に蹴り出される年齢が24なのか、27、28なのかって、だいぶ話が違う。学費のあてもないし。

いい意味でも悪い意味でも、ずるく、戦略的で、でも何も考えていない、楽な道を選んだと今でも思う。

勤めた先は給与がぱっとしなくて、大学の友人と手取りを比べると泣けたのでお金の話はしなくなった。すぐに激務になって無限に残業代が得られたのでお金に余裕ができ、昭和の女なので25歳にして即金で新車を買ったりした。

なんで楽な道を選べるのか。なんで楽な道を選んだのにお金に困りもせず生きてこれたのか。それは、「組織」というメカニズムがお金をパンピングして従業員に分配する機能を持っているからである。そして学歴(ここでは、大学名や、専門性や、学位のことも含む)とは、そういう分配機能のある組織のなかにすーっと入っていく通行手形になり得るのである。

 

「組織」のために私が売り渡したもの

組織と従業員の関係性はさまざまであるから、自分のケースを一般化することはできない。例えばビジネス書でよく取り上げられるキーエンスの営業なんかは、使える時間ギッチギチにアポを取って、毎日何を何分やっていたのか事細かに報告させられ、ルールを破るとめちゃくちゃ叱られて、でも決められた通りに仕事を進めればやがて大きな営業成績をつくることができ、すごく良い給与を得られると言われている。

私が働いてきた現場は、特段どうというルールもなく、また何回か転勤して所属が変わるとかなり文化が違ったため、サラリーマン現場あるあるとして面白い話は何もできないのだが、一貫して、いや、働いてきて何処かで気づいてしまってから・そう思うようになってしまってから、ずっと変わらなかった認識は、「この仕事は組織がやると決めたからやっている仕事なのであって、別に私がやりたかった仕事ではない」ということだ。

誤解のないように補足すると、自分は人から指示された仕事を粛々とやるみたいな立場ではなく、むしろ逆で、この事業を安定的に回していくためには組織にこういう作業・ルーティンを埋め込むべきである、という考え方で自ら手を動かす形でジョブ・クラフティングをし、仕事が回るようになれば自席を後輩に譲って自分は別のところにいく、ということを繰り返してきた。その仕事自体はときに大きなやりがいを伴うし、褒められも発生するし、昇進もする。積んできた経験を総合的に見て、悪くない仕事だったと思う。

ではなぜ、前述のような認識から離れられなかったのか。

それは、その事業をやると決めたのは組織であって私ではないし、私が頑張って事業が成功する結果を享受するのは、組織と株主と経営者と偉い人であって、私に分配されるおこぼれは無いにも等しい(大企業は多くのケースで頑張った人と頑張れなかった人の給与差は小さい)し、そもそもどうしても自分がやりたいことなどというものを他人様が作った組織で実行できることなんて稀だからだ。

ちなみに、「どうしても自分がやりたいこと」なんていうのは、ない。

もし、そんなものがあるならば、私はバンドマン(のよう)になっていた。バンドマンとは比喩である。やりたいこと、好きな対象にのめり込み、生活をバイトで支え、貧乏ぐらしをやむを得ないこととする。でもそういう生き方はしなかった。どうしてもやりたいことなんて無かったから。

 

さびしさの一側面、横顔

私は独身である。独身である理由は色々あるのでここでは割愛する。が、重要なのは、社会を構成する者の義務的な意識として、見合いのように結婚して、その相手と子どもをもうけ、子育てを人生の主軸にするような、そういう人生設計を自分はできなかったということ。若いうちに好きな人と結婚できていたらそうなれたかもしれないけど、その機会を作れず、あとから取り繕うように社会要請に基づく結婚にダイブできるほど、自分を捨てることはできなかった。昨今、そういう人は男女とも少なくないように思うけど。

とはいえ、いつ終わるかわからないけれどもまだあと何十年かありそうな人生において、パートナーと添い遂げるとか子供を育てるといった典型的タスクのない私は、何をして過ごすべきだろうか。私は定年までずっと組織に身を捧げるばかりで良いのだろうか。あるいは、「どうしてもやりたいこと」を見つけることさえままならなかった、【若くてパッパラパーな私×当時の半端ない不景気】へのカウンターとして、どうしても自分がやりたいことを発見し、そこにフルベットするような人生設計を図る。そういう時間の使い方によって、自分の時間を塗りつぶしていくことはできないのだろうか。

まー、そんなことを考えていたのである。

 

バンドマンにあこがれたなら、今何をすべきか

掲題の結論が「自分探し」だとしたら、流石にびっくりである。私も一応、自分を探すために職を辞したつもりはない。

具体的に何をしているか言うと身バレするかもしれないので言わないのですが、バンドマンに例えるならば、とにかくしっかり時間を作ってギターの練習をするということです。練習して、練習して、色んな人の演奏を聞いて、見て、自分でも練習して、練習した先に、自分だけが創り出せる音楽があるということを私はよく知っているので。

自分の分野で練習して、練習して、自分だけが創り出せるものへの到達を図ろうと思います。

いや、前述のとおり、自分は辛抱強く練習をすることを多くの場面で避けてきた結果としてこういう人生になってしまったという感触を強く持っているので、いまどうやら自分が向いていそうだなという異分野が目の前に現れたところ、全力で打っていこうやという気持ちなのであります。うまくいかなかったら路頭に迷うので、よろしくお願いいたします。

 

ということで、前置きは長く、重要なポイントは数行で終わりましたが、そういう感じで、実は最近時間があります。

よく「顔が忙しそう」「なんか忙しそう」「忙しいアピール以外なにしているの」等の言われ方をしていましたが、本当に時間があるので、よければ皆さん、会いましょう。

siraphの新譜 "Ghost camp" のこと

 siraphの新譜"Ghost camp"がリリースされました。おめでとうございます!
 表題曲のghost camp超良いので聞いて下さい。往年のオサカナファンも泣くと思う。ライブ始まりそうな感じがするから。

 

 配信はこのあたりから


 前の投稿に書いたツアーのときと、あとツアーファイナルの東京キネマ倶楽部公演と、Annabelさんが「Ghost Camp」という言葉に込めた想いと背景のお話をされていて、私はそれにひどく共感して、ああこれはなにか書いておかないと!と思っていたのですがなんやかんやと時間が過ぎてしまい。
 でも、せっかくのGWなので、やっぱり書こう!と思って、筆を執りました。いや、筆は持ってない。


物理のない、感情や言葉や概念だけの存在になる

 一語一句を記録・記憶できているわけではないのだが、Annabelさんがおっしゃっていたのは ―人と人との関係性ではどうしても見た目を含む五感由来の情報から逃げられない。Annabelさんであれば、女性、ハーフ(、びじん)とか。だけど、本当は、そういう情報なく、ただ魂(人間性?感情?)だけで向き合って、それだけでもわかりあえるのが理想で、そういったノイズのない純粋な関係構築をイメージして「Ghost Camp」という言葉を選んだ。魂だけが集まってキャンプをしているような。

 私ね、その言葉を聞いて過去一Annabelさんに共感したんです。
 ちょっと違うルートかもしれないけど、私も、フィジカルを脱ぎ去った形で人と向かい合いたい欲求があるんですよね。それも結構強く。だから10代の頃からインターネットにいたのかもしれない。インターネットにいたら、あえて明かさない限り、性別も、職業も、出身地も、顔かたちにおい、何もわからず、ただ言葉だけで接することができるじゃないですか。
 そういう、余計な情報を捨てて人と知り合うことのできるインターネットが好きだった。自分は、特に10代の頃は、自分のフィジカルに色々問題があってコンプレックスも大きかったので。
 文字だけでやり取りしあって、わかりあって、あとから会う関係も好きだった。そういう知り合い方をした人のなかから、何人かの親友を持ち、長い付き合いの人も増えた。インターネットで出会った人とあとから物理的に出会い直して、物理的なところに問題が生じたために疎遠になった人はいない(と思う)。物理的な情報をすこし割り引いて見る優しい関係性があったと思う。

 



 物理的な自分の形状で、得をする人もいれば、損をする人もいる。私は直感的に、(ちがうかもしれないけど)Annabelさんはその姿で得をすることが多いだろうと他人から思われること自体に対し、いやだと思う気持ちがおありになるんじゃないかな?と思った。ちがうかもしれないけど。あるいは、siraphというグループの中に居て独りだけ女性であることの座りの悪さが、物理を脱ぎ捨てればもっときれいに統合できるのではないか?とか。まあ、私の想像に過ぎないけれども。

 でも私自身も、昭和の女として社会でうごうごやっていくなかで、インターネットの中にいれば意識せずにいられた男女差の問題などを、実社会ではつきつけられて、うまく処理できなかったりしてきたので(つまり、昔はもっと働くって男社会で、男が働く前提でデザインされた社会に後から入っていくようにやってきたので。うまく統合できなかったし、社会の側を自分の力だけでは変えられなかったので、働き方改革が浸透するまでは大変苦労した)。


キャンプをしたと思えるほど、ことばを交換することは難しい、のか?

 「キャンプ」ということばにも実際のところ結構深い意味があるなあと思って。
 私は泊まりのキャンプってしたことがないんだけど、結構親しくないとキャンプってできなくないですか?(そんなことないのかな)そもそも人と泊まってる時点で結構仲良し。一緒に御飯を作ったりとか。お酒を飲んで語ったりとか。ただの飲み会の関係から一歩進んでますよね。そういう、普通より一歩進んだ深さの人間関係が結べている状態をあらわすとしたら、深い言葉だなあと。

 そういう関係性じたいが、もはや私クラスになってくるとレアだから!歳をとって、ライフステージが変わって、自分の周りの人も家族をもって、子どもをもって、若い頃のように気軽に呼び出して無目的に語らうことは少なくなった。私のおひとりさまレベルはずんずんと濃縮して、一人で平気なのか、それとも一人耐性が高まりすぎたのか、わからなくなる。人と語り合うって何?!
 そういうなかでも、こうして、ブログのようなところに物理を脱ぎ捨てた私が感情を叩きつけることはできている。10代の頃から何も進歩していないけれども、私という名の幽霊のソロキャンプ、最低クオリティの自分語りはできている。

 私は誰のためにも書かない。読み手を想定せず、とにかく自分の思ったことをそのまま出すことが重要。そういうふうに書いてきた。だからこの文章は、キャンプ用エピソードではないんだけど、でも、ghost camp materialとして物理を捨てた情報交換に流すう◯こ💩としては機能可能なようにも思えるんですよね。

 この文章の読み手は、私の顔を知ってるかもしれない。年齢も。でも、実のところ私のこと、詳細を、殆ど知らないですよね。

 へーって思ったり、共感したり、こいつ何なんだ?って思ったり、即ブラウザを閉じたり。そういう、物理を介さないこころの交流が、あるかもないかも。10代の頃むずがゆくソロキャンプを楽しんでいる中に、何人かのソウルメイトをみつけた。そういう奇跡のGhost Campを私は知っていて、それが2025年に再現可能なことなのかわからないけど、でも確かに、物理がなくても情報だけでわかりあえることって、あったんですよね。

 このブログを読んでいるかもしれないsiraphのオタク同士は(あるいはメンバーは?!)、少なくとも顔は割れているので、物理から開放された関係性をこれから築くことはもうできないのですが。
 でも多くの人は、本名も知らないし、仕事も知らない。家族のことも知らないし。そういう関係性だから、ある意味、siraphのオタクが福島の蔵で飲んでいるのとかが、Ghost campだったのかなー?とか

 思索はまとまらずに広がるし、結論もないけれども。

 なんか、勘違いかもしれないけど、バンドメンバーってファンのことを強く思っているのかもしれないな、とか。物理的制約を外したら、意外とこころはそばにいるかもしれないな、とか。

 不思議な気持ちになるんですよね。良作なんです。そういう気持ちになるGhost camp、みんな聞こうね。

siraph旅2025 仙台と上越編

siraph Ghost Camp Tour 2025 DAY3とDAY4に行ってきた

 「推し活遠征」などという言葉も一般的となり、好きなバンドを追いかけて遠くに旅にでることもなんらおかしくない時代を生きています。

 3月22日(土)は仙台の中心市街地にあるライブハウス"enn3rd"、23日(日)新潟県上越市の高田地区の中心市街地のはずれにある"上越EARTH"を目指して、旅をしてきました。バンドが旅に連れ出してくれるのはありがたい。自分は人よりは旅好きだと思うのだが、単に旅をするために旅をするということがめっきり減ってしまった。家の周りに居たら居たで、何かとやることもある日々だから。だから遠くに用事があることは貴重。その用事に合わせて、旅をする。

 一つ前の喜多方の記事もsiraphが旅をさせてくれた例であるけれども。本稿では、仙台と上越の街歩きの話をさせてもらいたい。

 

1日目、仙台の旅 震災遺構のある荒浜地区へ

 仙台は当然に都会なのでたまに来る街ではあって、あおば通りをはじめとして中心地のいくつかの場所には出かけたことがあった。そこで今回は、3月で色々報道されていて気になっていたこともあり、海辺のほうに向かうことにした。

 地下鉄東西線の終点である荒井駅から、ドコモのシェアサイクルアプリで借りられる電動自転車に乗って数キロ海の方へ。震災遺構「仙台市立荒浜小学校」を見学した後、その隣に設置されている「避難の丘」、「JRあらはまフルーツパーク」を訪れ、震災遺構「仙台市荒浜地区住宅基礎」、そして海岸(旧・深沼海水浴場)に立ち寄った。

 荒浜小学校の館内の展示については、充実のウェブサイトが設置されているのでそちらを見てもらいたい。

arahama.sendai311-memorial.jp

 

 私はもともと街歩きが好きで、観光というでもなく人が住んでいるところの道端をただてくてく歩いてその空気を吸うだけみたいな時間も贅沢で大変良いなと思っている。もちろん歩きや自転車で回れる範囲は大した距離ではなく、車社会の街にあってはそれで人の生活の何割も知ることはできないわけだが、街が持っているその時どきのダイナミズム(動的に変化していくものであること)を感じることが好きだ。これは、完成すれば一定のレベルでフィックスされる芸術作品や建築(朽ちない限り)とは異なる。街は営為であり、変化するという前提がある。

 荒浜小学校の展示が見せてくれるもの、特に、4階の一番奥の部屋に展示されている地震から津波、そして避難までの時間軸上の記録と、住民の語る回顧録ビデオは、街のダイナミズムのうちもっとも極端なもの、すなわち”一瞬での破壊”を伝えている。

 

 

 教室のベランダや、屋上から見渡す今の荒浜の風景には、かつて百数十人の小学生を抱える街があったとは想起できないほど、なにもない。展示によれば、確か当時世帯数としては800くらいがあったとか。約15年が経って、集落が津波リスクの低い場所に移動していったこと自体はなんらおかしくないものの、これだけの規模の土地が未利用のまま残されていることに驚くとともに、とはいえじゃあ何ならここに在ることができるのか?安易なアイデアしか浮かばない。この地区は、1933年にも津波に襲われ、その時は現在の仙台市中心部近くまで水が達した記録があるようだが、その記憶がやがて失われ、防風林の近くまで半漁半農の市民が住居を構えるようになったという。

 

 

 旧・深沼海水浴場は細かいきれいな砂浜の海岸だったが、震災後閉鎖され、大きな堤防ができたものの、海水浴場は再オープンされていないという。風が強い午後だったからかもしれないが、見渡す限りサーファーなどもおらず、堤防の上でぼんやり語り合う地元の人と思われる方、ランナー、犬を遊ばせている人が、ぽつぽつ。かつて海岸沿いに生い茂っていたと思われる防風林は歯抜けになっていて、津波の襲った10mくらいまで枝葉のない木が並んでいるが、風よけになるわけもなく、陸から海に向かって猛烈な風が吹き込んでいた。防風林自体は再建中で、海水浴場の近くに多数の植樹が見られたが、実際に街を守るほどに木々が育つにはまだまだ長い時間がかかりそう。

 一瞬の悲劇によって、多くの住人の命とともに生活の基盤たる機能を失ってしまった街。そこからまっすぐ伸びた道路を向かい風のなか気合で西に走って戻る。かさあげ道路を一つ抜けると水田が広がり、さらに走ると東北自動車道のそばには工場や倉庫と思われる二次産業の建物があり、民家はぽつぽつ。その濃度がやがて高まってゆき、きれいなマンションが見え、地下鉄荒井駅につく。

 その道のりは、自分の地元の地方都市(というか田舎)と大して変わらないんだけど、海のそばの生まれ変わらない空間がなんとも哀しい。津波から人命を守る対策は蓄積されており、その土地に居ることがたちまち命を脅かすわけではない。ただ、数十年に一度海水をかぶるところに、財産を蓄積することはできない。だから、仮に似たようなことが起こるとしても耐えられること、あきらめられることに土地を使うしかない。

 それにしたって。一見さんの私に何も言うことはできないんだけど。

 

2日目、上越の旅 直江津と高田

 翌日、仙台から新幹線で大宮に戻って北陸新幹線に乗り換え、上越妙高駅へ。そこからえちごトキめき鉄道「妙高はねうまライン」に乗り換えて、日本海沿いの街、直江津へ。ライブハウスはその途中駅の高田にあったのだが、なんとなく、海が見たくなって。太平洋の次の日に日本海を見に。

 

 

 駅前の中心市街地は、雪よけと思われるミニアーケードが敷設されつつも日曜日は大半のお店は営業しておらず、たまらないさびれ具合。低層の建物がずーっと続いているが、必ずしも自然が混在する田舎という感じではなく、やはり街なのである。しっかりと建物が密集する街が1.5kmか2kmほど、海岸ぎりぎりまで続く。前日訪れた荒浜地区は、海岸沿いから2kmほどのかさあげ道路まで、ほとんど民家は再建されていなかったが、直江津は海岸から道路を隔ててすぐまで住居が建っている。防砂のためか、塀こそ高めだったけれど。

 

 

 じーっと海岸に滞在したわけではないので人の様子はよくわからなかったけど、海岸沿いの駐車場には10台は軽く超えるほど地元の車が止まっていて、カップルや家族連れ、釣り人なんかもそれなりに居た。静かな海ではあったけど、寂しい海とはまた違う、生活の海か。

 


 訪れるまでまったく知りも気づきもしなかったのだが、直江津には大きな操車場があり、たくさんの線路が敷設されていたり車両が止まったりしていた。駅のホームには撮り鉄もぱらぱらいた。私も撮り鉄か?線路の奥に雪山がうっすら見えるのがエモい。田町では摂れない栄養があります。

 鉄道もまた街の形成の重要なキーとなる営為。上越地区のこのあたりの列車は、北陸新幹線の開通時にJR東日本から第三セクターに経営移管され、現在は「えちごトキめき鉄道株式会社」という会社によって運営されているという。この車社会にあって、地元の多くの人は自家用車で移動するんだろうけれど、私のような外のものや、ビジネスでやってくる出張者など、そして車を運転できない年齢の方などは、こういった公共交通を頼って中距離の移動をさせてもらう。これがなくなってしまったら、たとえ新幹線があっても容易にライブハウスにはたどり着けないし。直接的な因果関係を観測することは極めて難しいけれども、観光の動機、新しいビジネスの流入動機として縁の下の力持ち的な効果を持っていると言えるだろう。

 

 

 直江津から妙高方向に戻って高田の街に降りると、そこはまた想像以上にしっかりした街だった。駅もめっちゃおしゃれだし、駅から少し歩いたところに東西それぞれ数百メートルにわたるアーケード街もあった(お店はほとんど休みだったけど)。

 

 おそらく多くの方は車で郊外にあるショッピングセンターなどに出かけて暮らしているところ、中心市街地がしっかりしているのには驚いた。どうしてだろうと思っていたら、この街にもともとあった「高田城」というのは松平氏による60〜75万石ともいわれる越後高田藩の藩庁であったという。ビッグシティじゃん。お城の本丸が焼失したのは1870年とのことだが、それから150年以上にもわたってきちんと街の営為が受け継がれているのがすごい。

 どういう産業があるんだろうと調べてみると、出るわ出るわ。上越市内には、信越化学工業(直江津電子工業などの子会社も)、ブルボン、日本曹達などが工場を構えているらしい。そして訪れたときには気が付かなかったけど、直江津には世界最大の無印良品のお店がある。産業の足腰が強すぎる。こういうポイントは、街歩きでは見えないこと。下調べして、車で街を走り回らないと見えてこないことだなー。中心市街地だけを歩いていると、どうしても休日特有の寂しさを感じてしまい、しーんとした印象を持ち帰ってしまうんだけど、真の営為はよそ者の街歩きからは見えないところにあるよね、という当たり前の事実を突きつけられます。

 高田城址公園のなかには、閉館時間を過ぎていたので見学できなかったけど博物館や美術館もあり、また3〜4月には日本三大夜桜なお祭りも行われるらしい。三大にランクインするのは凄い。江戸時代に3000本もの桜の植樹が行われたとのこと。お城の本丸が残っていないのがなんとも残念だけれども、これだけのレガシーを備えているのだから石破政権の地方創生予算かなんかでちゃちゃっと再建しちゃえばいいのに(軽い)

 城址のまわりに立派なお濠があって、おそらくこれ蓮ですよね?枯れた茎が湖面にびっしりと残っていて。夏になってこの蓮が咲いたら、めちゃくちゃキレイだろうなと思いました。桜も見てみたいし、蓮も見てみたい。(siraphのキーボーディストで地元出身の)蓮尾さんの街だ!!この日は残念ながら曇っていたけれど、奥に見える雪山も迫力があって素晴らしかった。土地や街が持っているパワーを感じた。人が居付いて、産業が根ざして、街が続く”持続可能性”の片鱗をみた。当たり前にずるずる続いていく東京にはない、土地ならではのエネルギーだと思う。

 

「ユートピア・コスモス」

 最終目的地のライブハウス上越EARTHは地方らしく、地下ではなく1階部分で音出しできる物件。天井もめちゃ高い。物件に「ユートピア・コスモス」という看板がかかっていて、なにかと思って調べてみるとどうやらかつてはゲーセンだったとのこと。隣の敷地には元・レンタルビデオショップなマクドナルドもありましたけど、かつてはここに青少年たちの文化が集積していたのですね。いや、ライブハウスがあるから、今もそうか。

 上越EARTHというライブハウス自体はSince 2005とあって、割と最近(???)つまり蓮尾さん上京後にオープンした箱であるようだけど、もしかしたら格ゲーマー・蓮尾少年がこのユートピア・コスモスに通っていたのかも?しれないですね。夢があるなあ。

 

 高田の街を歩きながら考えていたことは。これだけしっかりと市街地があって、お城があって、そういう街に暮らしていて、エレクトーンを習って、めちゃめちゃ上手で。そういう18歳が、どうしても音楽に打ち込みたくて東京に飛び出していくっていう、その飛び出す推進力がやっぱり凄いなっていう。地元でまあるく収まる慣性が強く働いている街だと思ったんです。信じられないくらいさびれていれば、危機感で飛び出せるとかもあるのかもしれないけど、そういう感じじゃなくてちゃんと持続している地方都市だったから。でもそういう、なんとなく生きれる慣性の法則を打ち破って、東京に出てきてくれた蓮尾さん、素晴らしい方だし、素晴らしい音楽だし、なんかもう、素晴らしいなって。語彙仕事しろ。

 だって素晴らしい人格者で、ご家族も素敵で、エレクトーンの先生や地元のお友達などもライブにたくさん集まって、調和の人じゃないですか。でも曲とコードの不協和、違和感からの、やっぱりそれが( ・∀・)イイ!!っていう、異常性がありすぎるのに一周回って完全に調和してるのやばくないですか。歌メロ美しすぎるのにバッキングのピアノの音おかしいんですよ。どうしてそうなった。でもそれじゃなきゃだめで。

 いや、そんな音楽性と街とのあいだには特に関係はないかもしれないんだけど。

 なんというかこう、これてよかったです。

 この記事、いつになく音楽バンドとしてのsiraphと関係なくてすごいね。まあ、いいか。結論としてはー 旅をしました。また旅に出たい。

 

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(追記)

siraphへの感謝

旅の間にこんなことを投稿した。

 

 まー私は、音楽家(バンドマン)とおよそなにか共通言語を持つ人間ではないのです。ピアノは10歳で卒業。ガリ勉で生きてきました。大学院生のとき、下北沢の餃子の王将で「おれ中卒だからおごってやるよ」って某ベーシストの人にライブの後おごってもらったことあります。全力で親のすねをかじって生きてきましたし、相対的におそらく挑戦もしていない人生であります。今の仕事を今後辞めずに続ければ、おそらく経済的安定も続き、住宅ローンもたぶんそんなにおばあちゃんになる前に返済もできてしまうでしょう。

 そういうふうに、守りの人間だから、旅に出ることは重要なのです。知らない土地に行き、知らないものを見て、自分の中の守りきって淀んだ空気を入れ替えたい。きっかけがないと換気さえも忘れてしまうから、連れ出してくれるあなたは、私にとって重要です。

 そしてステージを観て、身体を揺らして、客席に向けられた照明が眩しいから目をつぶって、俯いて頭振って、髪の毛がボサボサしてきて、ようやく、ほとんどない共通言語が重なったときに、自分も飛び出していきたい、そういう人に憧れてずっとやってきたじゃないか、そんな衝動と対峙するわけです。

 私はおそらくこれからもおよそ音楽家(バンドマン)と共通言語を持つことはないかもしれないけど、せめて飛び出していったということだけは、そこだけは戦友になりたくて、自分なりに飛び出せるように、自分なりに尖れるように、そんな感じでやっております。

 どうやら、ハイスイノナサやschool food punishmentを通じて、照井さん、蓮尾さん、山崎さんと出会ってから16、7年くらいになるようなのですけど、10年くらい前からですかね、自分なりに飛び出そうとして、遠くの国に引っ越してみたり、神﨑風花さんと同じ年に大学戻ったり、結果が出ているのかよくわかりませんが、そういうことをしていて。バンドマンのようにクリエイティビティを社会に投げつけるほど、大きな成果は出せていないように思いますが、なんというか、遠くの街までライブに行くことは、自分自身の飛び出し角度を調整するような行為だなと思って。

 最近ほぼ毎日くじけてますけど、あらためて飛び出し角度のチューニングさせてもらったんで、また引き続き頑張ります。

 私的なことだし、具体を書いていないからなんも伝わらないですけど、そういう感謝を記したくなったので。ありがとうございます。

 旅情にしても、想いにしても、書かないと溶けて消えて忘れてしまうので書きました。引き続き応援します。ありがとうございます。